ちーモのてくてく歩こうブログ~tech-tech-walking~

当初はtech(技術者)とてくてく歩くをかけたテクニカルブログだった雑記ブログです。

1945年8月、祖父は弟を探しに広島へ向かった。

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僕の母方の祖父は昭和2年生まれでまだ元気に生きている。

戦争を経験した世代はあまり戦争の話をしないというが、例に洩れず元々口数の多くない祖父もあまり戦争体験を語らない人だ。

 

僕が中学生の頃、この国の歴史、戦争に興味があり戦争の話を聞いてみた際に、少しだけ話してくれた話がある。

 

祖父は高知県の片田舎の11人兄弟の次男として生まれた。

小学校では学級委員長(当時は成績が一番の人がなるものだったらしい)をやっていた祖父は成績は良かったものの、兄弟が多く家は貧乏であったため、進学を断念。

(このあたり時代的に良くある話だったのかな)

 

小学校を出て、そこから色々紆余曲折を経て神戸にて軍事訓練(無線通信関係?)を受けていたらしい。

 

訓練時の話は色々聞いた。 

 

貧乏で履物が買えなかった祖父は、軍馬の干し草で草履を作っていたところ上官に見つかり『軍馬も軍馬に与える干し草も天皇陛下のものである!』と死ぬほど殴られたこと。

 

食べ物が無くて彼岸花の根っこをすりつぶして、水にさらして乾燥させた団子を食べたこともあるとか。

 

一つ僕が忘れられないエピソードがある。

1945年8月当時、祖父は当時神戸におり弟が広島にいた。

そして1945年8月6日がやってきた、皆さんもご存知の通り広島の街は焦土と化した。

 

原爆投下の直後、祖父は広島へ弟を探しに出かけ、街の壊滅的なダメージを目の当たりにしたという。

 

沢山の瓦礫を踏みしめ、沢山の死体超え街を歩いたそう。

結果弟は無事で時間差はあったものの再会できたらしい。

 

終戦時、祖父は18歳。

原爆投下の日に18歳になった。

 

あと半年終戦が延びたら祖父は無事ではなかったかもしれない。

母も生まれず、僕もいない。

 

祖父は青春時代をすべて戦争に奪われたのだろうか。

 明日は広島に原子爆弾が投下された日、そして祖父の誕生日。

 

顔は見せられない距離だけれども、すっかり耳が遠くなった祖父に電話しよう。

 じいちゃん、生きててくれて、ばぁちゃんと出逢ってくれてありがとう。

 

最後に祖父と同時代を生きた茨木のり子さんの詩を載せます。

 今青春を送ってる人達は今に感謝して、大切にね。

 

 

  

『わたしが一番きれいだったとき』

 

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

 

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

 

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

 

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

 

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね

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